美学史という学問を斜め読みすると、ある美的概念をある時代の社会が共有しようとする力が働く。
提案者があり、それを感受するオピニオンがこれを承認することで、大勢が安心して追随する。
信仰や宗教とともに社会を時代または世代としてまとめる機能が働くわけだ。
ヘレニズムはその美の普遍性を夢見たわけだが、それはともかく、
それぞれの時代に憧れた美しさは、それぞれの時代のものだ。
特に目上の振りかざす権威から自立する形で若い感受性は働くから、
前世代が夢中だった代物が白々しく陳腐に感じられるのも当然だ。
今日のマーケット崇拝社会では、そういう社会が共有しようとする美は最大公約数データに堕落している。
どこの車を買っても中身が代わり映えがしないのは、最大公約数化された仮想の「訴求」をもとに作られるから当然だ。
その堕落物を大変なコストと手間をかけた外装で包んで、もっぱらその包装で人を惹きつけようとする。
バブル期あたりを境目に、そんな風に産業商品の開発のされ方はくっきりと変わった。
「スカG」に象徴されるような作り手(サムライ)の才覚と技術と情熱の開発ストーリーは、本当の神話となってしまったわけだ。
そんな神々の起こした奇跡を、今の瑣末な大量消費商品に求めても詮無いことだなあ。
死んだ人にはもはやかなわない。とも言えるかも。
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